埼玉県内で幕末まで存続していた城は忍城、川越城、そして岩槻城です。
岩槻城の築城は長禄元年(1457)扇谷上杉氏が古河公方への抑えとして家臣太田道真・道灌父子に築かせたともいわれています。天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻めで落城しますが、同年秀吉の全国統一に伴い、岩槻城は徳川家の家臣高力清長が城主になります。同年豊臣秀吉は、岩槻城に入り庭の萩を見て和歌を詠んでいます。以後、岩槻城は幕末まで徳川譜代の大名が城主となりました。区内には総鎮守久伊豆神社、慈恩寺など歴史ある神社仏閣が数多く点在しています。
岩槻は全国的に有名な人形のまちです。地場産業は、起源がはっきりしない場合がきわめて多く、岩槻人形の場合も諸説があります。一般的には江戸時代の文化から天保期(1804〜1844年)に始まったと伝えられています。岩槻人形の特徴は、土ではなく桐の粉を使用したことで、壊れにくく精巧につくることができました。そして岩槻人形は、岩槻の代表的地場産業として現在に至っています。
城下町の面影を色濃く残すまち並みにも、近代化の波は確実に押し寄せてきました。洋風の建築が徐々に増え、電柱が街路に建ち並びました。更に近代岩槻発展の夢を乗せて鉄道が走り始めると、新たなまち並みも生み出されました。こうして新たな景観が形作られてゆきます。